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ユニバーサルダンス教師プロフィール⑥ 〜メイ〜

こんにちは。メイです。
生まれも育ちも大阪ですが、
昨年4月に大阪から神楽坂に引っ越して来ました。
この記事では、わたしがなぜ、
ユニバーサルダンス教師になったのかをお話ししたいと思います。
少しのあいだ、おつき合いいただければ嬉しいです。

私が社交ダンスを始めたきっかけは、
映画「セント・オブ・ウーマン」
アル・パチーノ扮する目の不自由な退役軍人が、
初対面の美しい女性を誘いタンゴを踊るシーンがあり、
素敵な曲とともに記憶に残りました。
(社交ダンスで踊られているタンゴとは違うのですが、
その時はタンゴ=社交ダンスと思っていました。)
「タンゴとかワルツとか、やってみたいな」
と軽い気持ちで社交ダンス教室に見学に行ったのが最初です。

それから2年ほどたった頃、
ダンスに関係するブログを何気なくネットで検索していて、
偶然にジュンコ先生のブログに出会いました。
「社交ダンスが上手くなるということ」というブログの題名に興味をひかれました。
「社交ダンスが上手くなるということって、それってどういうことだろう?」

ブログの読者になり、
第4回ワークショップで本物(リアル)のジュンコ先生と出会い、
ヒデさん、ミキヒコさんに出会いました。
ユニプラに参加させていただくようになり、仲間もできました。
自分がユニプラをどんなに好きかということを競うように、話をしました。
ジュンコ先生が、
グループレッスンの中で参加者の一人ひとりと
丁寧に向かい合って導いてくださることに、驚きました。
ゼロプラ(現在は100プラ)にラテン専科、
(当時あった)女子プラが始まった頃には、
毎週のようにレッスンに通うようになっていました。
少し疲れている時でも、レッスンに出て元気になって帰ってくる、
それは「自分にとって何か良いこと」だと感じていました。

実は「教師コース」が始まってからも、
「自分にとって何か良いこと」
の延長線上を歩いているように感じていました。
この時期には、
父の突然の死や長年勤めた会社を退職すると決めたことなど、
環境や自身の考え方や心の大きな変化が訪れてはいました。
しかし、自分がダンス教師になるということを、
うまく思い描くことができないでいたのです。

昨年2月にそれが変わりました。
教師として初めて練習会を担当させていただいた時です。
肌で感じた自分の「存在」のなんたること。
知らなかった。こんな自分。
「今までわたしは、人とどんなふうに話してきたんだろう。
どんなふうに過ごしてきたんだろう。
どんな声?どんな言葉?どんな考えで?
どんな感情?どんな顔?カラダの状態は?在りようは?」
子供の頃から今までの人生の中でのワン・シーンが、
不意に浮かんでは消えます。
「自分の人生」を生きてきた、つもり。
「コミュニケーション」してきた、つもり。
いくつものシーン。
知らない自分、
そのままにしてきちゃった。

「これ(社交ダンス教師という仕事)、わたしが変われる」
変わりたいのに変わろうとしなかった自分(傲慢・怠慢・無知)を認め、
真に自分と向かい合うために、
「社交ダンス教師になりたい」と思いました。

その後の1回1回のわたしの教師としての活動は、
内実を言うと、
てんやわんや、泣いたり笑ったりの大騒ぎ(?!)となっているのですが、
それも静かに見つめる自分がいて、
皆さんがいてくださることへの感謝の気持ちがあります。
カラダを使って、開ける扉を探している感覚もあります。
扉は無数。

つねに在る本当の自分に、
いつもどこまでもずっと寄り添って、
自分が本当に楽しんでいるのが、同時に人の役に立つ。
そういうふうになっている、
この道で仕事をさせていただきたいという想いで歩んでいます。

すでにお会いしているみなさんには、
いつも本当にありがとうございます。
これまでに出会った方々、これから出会う多くのかた、
支えていただき、ありがとうございます。
いたらないことが多々ありますが、
これからもどうぞよろしくお願いいたします。

一般社団法人日本ユニバーサルダンス協会
峯京子(メイ)

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